御由緒
御由緒(ごゆいしょ)
延喜18年(西暦918年)、八幡大神様が亀命山(現在の石清尾山)山上に現れたので、当時の国司が山上に祠を建ててお祀りしたと伝わっています。
石清尾(いわせを)八幡宮の社名の由来は、当時社殿があった赤塔山が亀ノ尾山塊の山裾にあたり、石清水八幡宮の「石清水」と「亀の尾」を一つにあわせて「石清尾」になったと言われています。
古来、この周辺は現在の八幡宮近くまで海であり、亀がたくさん這い上がって来ていたことから「亀命山」や「亀阜」など、亀とつく地名が多く見られます。
南北朝時代には、ここ讃岐を治めていた右馬頭(うまのかみ)細川頼之公が当宮への崇敬の念篤く、戦勝祈願を行います。
従兄弟の細川清氏を破り、伊予の河野氏征伐が成就したことにより、当宮の社殿を改修し、様々な武具を奉納されました。この時(1364年)に右馬頭市(うまのかみいち)が始まり、現在の市立祭へと繋がります。
天正16年(1588年)には讃岐守、生駒親正公が高松城を造営し城下町を整えた際、当宮を府城の鎮護、高松の産土神と定めました。二代目の生駒一正公も当宮社殿を改築し、社領を寄進されました。
江戸時代に入り、寛永19年(1642年)高松藩主となった松平頼重公も当宮を氏神と篤く崇拝し、寛文6年(1666年)社殿を造営し、社領と多数の宝物を寄進されました。
第二代藩主松平頼常公も頼重公の社領寄進を追認し、以後、歴代藩主は代替わりごとに当宮を参拝することになりました。
明治5年には「懸社」に列せられました。
不幸にも、創建後320年に及ぶ本殿をはじめ、幣殿、上拝殿の3殿は昭和61年に焼失しましたが、平成元年に氏子崇敬者の浄財により復興されました。
また平成6年に神輿舎を新築し、平成8年には拝殿前の石段の傾斜緩和、石畳の修復など大規模な境内改修工事を行いました。
以来、高松総鎮守・高松の護り神として多くの人に親しまれ現在に至ります。
延喜18年(西暦918年)、八幡大神様が石清尾山に現れたので、近隣の人々が敬いお祀りしたとも、又は時の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴き、お祀りしたとも伝わっています。
石清尾(いわせを)八幡宮の社名の由来は、社殿が亀の尾山の山裾にあったので、「石清水」と「亀の尾」を合わせて「石清尾」になったと言われています。
古来、この周辺は現在の八幡宮近くまで海であり、亀がたくさん這い上がって来ていたことから「亀命山」や「亀阜」など亀とつく地名が多く見られます。
南北朝時代には、ここ讃岐を治めていた右馬頭(うまのかみ)細川頼之公が当宮への崇敬の念篤く、社殿を拡張し、多数の武具や宝物を奉納されました。
天正15年(1587年)には讃岐守、生駒親正公が高松城を造営し城下町を整えた際、当宮を府城の鎮護と崇め、神域を拡げ、社領を寄進されました。
江戸時代に入り、寛永19年(1642年)高松藩主となった松平頼重公も篤く当宮を崇拝し、社殿のみならず境内全域の大造営を行い、社領や多数の宝物を寄進されました。
それ以降、歴代藩主は代替わりごとに当宮を参拝し、松平家の氏神と崇め、燈籠などを奉納して手厚く保護されました。
この時代、石清尾八幡宮は大きく発展し、放生会(現在の秋祭り)には高松中から人々が集まり、絢爛豪華な祭典行列が行われるようになりました。
松平頼該筆 石清尾八幡宮祭礼図(写し)
明治5年には「懸社」に列せられました。
昭和9年には閑院宮殿下、12年に梨本宮殿下、14年に伏見宮両殿下が御参拝されました。
不幸にも、創建後320年に及ぶ本殿をはじめ、幣殿、上拝殿の3殿は昭和61年に焼失しましたが、平成元年に氏子崇敬者の浄財により復興されました。
平成30年(2018年)は当宮の創建1100年にあたることから「創祀(そうし)1100年祭」を盛大に行い、社殿や社務所の改修を行いました。
古来から高松総鎮守・高松全市の産土神として御神徳を高めてきた石清尾八幡宮。今なお多くの人々の尊崇を集め、親しまれて現在に至ります。