平安時代、延喜18年(918年)八幡大神様が赤塔山(現石清尾山)に現れ、これをお祭りしたと伝わっております。また、時の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴き、祭ったとも言われております。
石清尾八幡宮の社名は、社殿を造った赤塔山が亀ノ尾山(亀命山)の山裾にあたり、石清水と亀ノ尾をひとつに併せて、「石清尾」となったと言われております。亀ノ尾山の摺鉢谷から岩清水が渓流となり、その裾の処の八幡様ということこの名が付いたのでしょう。
この辺りには、亀命山、亀阜など亀とつく地名が多く見られますが、当時、八幡様の山の際までが海で亀がたくさん這い上がって来ていたからだと言われております。
南北朝の時代、細川右馬頭頼之公が讃岐はもとより四国を治められていましたが、敬神の念篤く、社殿を拡築し武具を奉納し、中でも貞治3年(1364年)の戦勝の祈願成就の御礼で始められました「右馬頭市」は現在も「市立祭」として5月2,3日に斎行されております。
安土桃山時代の天正15年(1587年)には生駒親正が讃岐を治め、高松城を造営し城下町を造り、当社を城の鎮護と崇め社殿を改築し社領を寄進され、以来、当社は高松の氏神様として親しまれて参りました。
江戸時代、寛永19年(1642年)高松藩主となった松平頼重公も当社を崇敬し、社殿を造営し社領、宝物を寄進するなどされました。
その後、宝永2年(1705年)三代藩主、松平頼豊公により社殿が改修され、歴代藩主は毎年、当社を参拝する事となりました。 明治5年11月14日には、縣社に列せられ、現在に到ります。
今も、当社は高松市の氏神様として崇敬され、一時は衰退しておりました10月の大祭も地元各位のご協力のもと、その行列は500名を数え、賑わいをみせております。
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